和歌山県ではなぜ原発建設を阻止できたのか?

  

 以下は『原発を拒み続けた和歌山の記録』(発行:2012年5月11日、編者:「原発わかやま」編集委員会、監修:汐見文隆、有限会社・寿郎社)の最後に掲載されている講演録を掲載させていただいたものです。

鈴木静枝さんの「女から女への遺言状」再録にあたって

「和歌山の女たちのネットワーク」(紀伊半島に原発はいらない女たちの会)は一九八七年に結成して、毎年夏に日高町で合宿をしていました。最初は故久米三四郎さん、小出裕章さんたちの専門家の講師陣で、地元の人たちと県内各地から私たちが子連れで参加、交流していました。その頃の記録はほとんど残っていません。記録をとる余裕が当時なかったのです。
 一九九〇年に日高町は反原発町長を選びました。その後の合宿は、主に戦争経験者と戦争体験のない女たちの交流でした。
 一九九三年七月二九日に日高町産湯の民宿「桂荘」にて行われた合宿では、「原発に反対する女の会」代表の鈴木静枝さんに講演していただきました。この文章は、のち会報『女たちの会ニュース』九号(一九九三年九月一四日発行)に掲載されたものです。(松浦雅代)


 昭和二〇年八月一五目、玉音放送がありました。
 雑音混じりの、よく分からない天皇さんのお声が、どうも「戦争負けて止めた」と言うてるふうにとれてね。負けたと言うたわ。ということで皆ぼけーとしてしまいました。その時、私は、あ、口惜しい負けたと思ったのかそれとも、あ、済んで良かったと思ったのか、その時の事考えたら何も覚えていないんですよね。ひょこっと、そこが抜け落ちたように、どう思ったのか分からないのです。
 ただ私と一緒に聞いていた人がぼそっと「ほんなら今日から電気つけていいんやろか」といいました。黒い布を被せて、灯火管制です。夜なべの仕事は少しの明りの下でしか出来なかった。暑いし、暗いしねえ、もううんざりしていて、一番先に電灯が出てきたわけです。「ほら、つけたらええわ」と言う人はいなかったでず。「おとうちゃん、帰ってくるかいな」と言う人がいたんですけど、「そんな事、今頃言うたらあかん」と叱られました。
 やはり、どうもまだ戦争負けたと言われても、しゅんとこなくてね。ところが、その次の日だったか、その日だったか、ラジオがね、もうニコニコとした感じで「皆さんアメリカは良い国ですから仲良くしましょう」と言うのです。私はこれを聞いた時、負けたんやなーと、痛切に思いました。前の日まで「鬼畜米英・撃滅」とわめきたてていたんですからね。ほんとにころっと変わって。マスコミというのは、だいたい風にそよぐ葦のように敏感で時代の通り動くもんらしいけど、あれはアメリカの命令だったのか分かりませんねえー。

 それから、その次に新聞が「一億総ざんげ」という事を書きました。まあ、この戦争負けたんは、我々もしっかりやらなかったから申し訳ない。天皇さんにお詫びしょうという一億総ざんげですね。その時はそうやなーと思ったんですけど、後になって考えると、これはちょっと変やなーと思いました。だってね、私たちは一生懸命に戦争に向かって走ったけど、それは上からの命令で、真に正直に、そのバ力が付くくらいバカ正直に素直に言う事に従ったんだけど、あっち向いて走れと言って指揮した人達が上にいたでしょう。これから五〇年もたったら日本がぺちゃんこになってガレキの、本当に奥尻島みたいにねえ、ぺちゃんこにやられて何も残らないようになって、そしてアメリカに降参したんだという事をみな終戦という言葉で忘れてしまうのではないか、と思ってね。
アメリカともうここらで戦争止めよか、と言うて握手して止めたという感じでしょう。終戦というあいまいな、もことした言葉を使ってね、戦争が終わったという事でごまかして、それから一億総ざんげで、戦争の責任をどっかにぶっ飛ばしてしまって、経済再建という事だけに向けて、まあ五〇年近い年月をば、つっ走ってきたように思うんです。なんだか日本という国が非常に大事な事忘れて、ただお金儲けのためにつっ走ってきて、その走り方が今でも続いているような気がするんですけどね。

 私は戦争中、疑うことなく戦争に協力しました。後から考えてみたら、なんで分からなんだやと思いますけどね、その時は本当に分からなかったんです。しかし後で戦争に反対した人が沢山いたと聞いて、この人たちに見えてたのに何故私に戦争の本質が見えなかったのかほんまにはずかしかったです。やっぱり小学校の時から叩き込まれだ、教育というのは恐ろしいですね。天皇陛下の為に死ぬ、と言う一本に絞って学校の教育はあった訳です。教育に関する勅語という天皇さんのお言葉の中に、一旦緩急あれば義勇公に奉じという所があります。戦争が起こったら、何もかも捨てて天皇さまのために死ねという事ですよね。そういう教育が戦前の教育だった訳です。
   人間の命は今では地球より重いと言いますけど、あの頃は本当に羽毛のように軽かったんです。だから、戦場で兵隊さんを殺すという事に対して軍の上の人たちは、何の後悔も無かっとように思うんです。その戦争が済んでから天皇さんが「私は神様ではない」とおっしゃってね。あれもびっくりしました。それまでは、畏くも、と言うたら、皆んなぴーと気をつけやりまして、あれテレビで時々やりますね、しゃちこばって。それは神様であったからです。
 ところが、その天皇が「私は神様ではない」とおっしゃるでしょう。なんだか、雲の上から下へ落っこちて来たような具合です。それもびっくりしましたけどね。

 その次に新聞がまためったやたらと、今まで報道出来なかった戦争中の悪事を暴露しはじめました。本当に、被せていたカバーをぱんと引き外したらね、下から汚いごみがわんさと出てきて、それをまた手でもってわっとそこらにまき散らしているような、そんな感じでした。もう悪い事が一杯出てきました。
 その悪い事というのは、まあいろいろありましてね。一番つらかったのは天皇さんのお使いだと思って神様のように崇めていた日本の軍隊が、あちこちで、暴行だ、虐殺だ、という事をやっていた話です。私達は、南京が落ちたときには、提灯行列をしてお祝いをしました。その提灯行列をして私達が祝っているときに、あの南京大虐殺というのがあって、もう何万人という中国人が殺されて、そういう話が外国の新聞に出ていて、日本人だけが知らなかったということもあるんですね。私はあの数日の間に私って、なんちゅうアホやろと思ってね、なんでこんなに見えなかったんだろう、だけどこの素直な人間をば、なんだってあんなにだましたんだろうと思ってね。

 第一、大本営発表で勝った、勝ったと言ってたことがみんなウソで、負け続けばっかりだったということでしょう。そして南の島へ兵隊さんをいっぱい置き捨てて、連れに行く訳にもいかず、弾も食べ物も持って行ってあげられないから飢え死に同様に死なせたという話もあるしね。本当に、お母さんが聞いたら、自分の息子がそんなふうに死んだと聞いたら、本当にやりきれんし、すごく腹が立つだろうと思うんですよね。私もおかみがこんなことして国民をばだましていいのかと思ってね、その時はほんまにものすごう腹が立ちました。
 おかみがだますことがあるんやなあと知って、それもびっくり仰天。おかみというと、天皇様とその政府だと私は思ってましたからね。八紘一宇の聖戦が侵略戦争であったとはね。

 それからもう、だまされまいと思って私の戦後はあったようなものです。で、戦争すんでから、原発にめぐりあったんですけどねえ。その時の話では、原発というものはクリーンなエネルギーで、すごくいいもんで、火力、水力なんかよりも値段が安いし、それからそれを持ってきたら、まあ地域に何億というお金が降ってきて、個人にたくさんの補償金がもらえて、道は広くなるし、立派な公共の建物は建つし、何年にもわたって豊かになれるということで、タナからボタモチ降ってくるような話でした。
 あんまりありかたい話なので、これまた例の戦争の時みたいな八紘一宇ではないかと思って、気をつけやなあかんなーとその時思いました。阿尾(あお)へその話がきたのは昭和四二年です。その時私は、阿尾の小学校で教師をしていました。そして四八年、原発が白紙撤回されるまでの阿尾の人の戦いぶりを、学校も窓から見せてもらったわけです。ずいぶんがんばりました。本当に見事でした。

 小浦(おうら)に来たのはその二年後の昭和五〇年です。私はその年に教師をやめて、家で畑仕事をしていました。この年、阿尾は白紙撤回したけれど、その時は賛成の人、反対の人がほんまにもう、顔つき合わせてももの言わない状態になって、村が二つに割れてね、双方傷だらけになってしまった。なにせ、兄弟同士、親類同士、伯父、甥、隣人、そういう関係で二つに分かれて顔を合わせてもふんとむこうを向くような、そういう状態が何年も続いていたんですからね。まったくのとこ、やりきれなかったわけです。だから小浦に来た時、私達それがこわくて、そんなこと言うたらまた阿尾みたいになるて、この話、聞かんことにして断ったらええんと違うかい、と言うたんですけど、やっぱり そうはいきませんでした。
 反対運動が、一番小浦で燃え上がったのは五二年の夏からでした。反対署名を集めて、反対の数をば多くして、それから役場へ抗議申し入れに行きました。私達が出かけますとね、関電の人が神経質になって、車の電灯を消してお宮さんの前で待機していて、私達がカブや自転車で出かけると、後ろをノロノロついて来るんですよね。署名もらいに入って行ったら、またその人もノソノソと 入って来て、用もないのにウロウロして、「あんた何よ、もう、帰ってよ」と言うたら、「あんたらもゴキブリみたいにこんなに出てきてなんな」と言うて、けんかになったりしてね。そらもう、賑やかなものでした。私ももうちっと若かって、一〇年以上前ですからはりきって、小浦の人達と一緒に、ずいぶんかけ回りました。お正月の前だというのに、漁師の奥さんなんか、エフロンね、こっち向けていたら汚れたんで、裏返して着たら、また汚れたんで、また裏返したというくらい、洗濯もろくすっぽできんくらい、かけ回ったもんです。
 町会議員さんの中で反対してくれている人は、二、三人しかいなかったでず。一七〜一八人中でね。議員さんにあんたも反対に回ってください、と頼みに行ったら、その人の言うのにね、「わしらただの漁師や百姓やから、原発なんて難しい事は分からへん。その難しい事は学者先生に任しといたらええんで、あんたらかて、そんな事言わんと、おかみの言う事、聞かんせよ」と、向こうに説得されてしまったのです。
 私は、おかみの言う事聞いていたら間違いないわ、て言うたんで、あれこの人、戦争でえらい目におうたのに、まだおかみ信用してんかなあ、と思って、おかみ、おかみて、おかみは戦争の時、うそだましてたんやで、原発かてうそだますか分がらんやないの、と言うと、そがな昔のこと言うてもはじまらんよ、と言うわけです。おかみはなかなか頑丈で、退散してくれへんのです。
 戦争に負けても、ほんまに、あれは徳川時代からおかみ恐れて暮らしてきたのが、もうしみついているんだと思います。もう一人は「そらなあ、原発反対でいやだっても、これは小浦へ召集きたようなもんやさかい、おかみの言うこと、聞かんわけにはいかんよ」と、これは元軍人さんの言うことです。
 あんな反対するやつらは、過激派みたいにおかみに手向かうんやから、あの入ら赤や、言うてね。もう、その古めかしい赤というレッテルを、私らペタンと貼られてしまいまして、赤でも黒でもないけど、ただ原発というものがこわいということだけで反対しているんや、と言うても、通じません。だから、原発に賛成するか、反対するかということで、おかみに忠実であるか、手向かいする気かという、そういう踏み絵がわりに使われている傾向がありました。
 だから、小浦で、九二人も初め署名してくれたけど、一〇年程の間に一人二人減っていってしまってね、足元をちょっとずつ波が崩していくように。就職する時におかみににらまれたら、ちょっと悪いさかいよう、ちょっとの間、署名はするけどよ、黙っててよ、というような形で、だんだんとだんだんと減って行くわけです。なんかおかみが光り出したら、後ろへ後ろへと下がるんやね。私もう、ほんまに、情けないと思いました。なんで、こんなにおかみにはばからんといかんのか、と思って、悔しかったです。おかみは政府でしょう。その時のおかみは自民党の政府ですからね、そのおかみが頭にすわっている以上は、こらもう原発もどうしようもないなあ、とほんまに思いました。

 それから、もうほんまに、もうあかんなあー、と思うことが何度もありまして、総代会で、事前調査受け入れて、総決議なんかされたことかありましてねえ。一票か二票の差で負けたこともあるんです。もう、今度こそやられたなあー、と思ったら、そう、丁度、あれありがたいと言うたら悪いんですけどね、スリーマイル島の事故が起こった。それからまた、今度こそあかんかなあ、と思った時分に、チェルノブイリの事故が起こったりして、まるでそれこそ神風が吹くように、その事故があった人たちには申し訳ないのですけど、小浦の原発をばまあ、払いのけてくれたようなところがあります。
 それでいろいろとあって、昭和六三年、町役場の横の公民館で漁協の総会がありました時にね、原発事前調査の議案、原発受け入れ調査が廃止になりまして、それで原発の、一応けりがついたわけです。
 その時はもう、ほんまに息づまるような会合でしてね、私はあの日のことは忘れられません。その台上に並んでいる賛成派や、賛成反対まじえた議員さんやら、それから下にいっぱい集まっていた漁協の組合員やら、その間でこぜりあいが起こったら、警官が何人も、ぱーと間髪を入れずに現れて、前にこう、立ちふさがるような場面があってね。そしてまあ結局、廃案やということで、廃案なら、これで原発終わりや、と言うてね、濱さんなんかバンザイ、バンザイということで外に飛び出していったもんですから、へえーほんまにこれで終わったんかい、とボケッとした位でした。
 それでも一松町長さんは諦めないで、平成二年九月三日、漁協へ事前調査の申し入札をやったんです。丁度町長さんの任期がじき切れるんで、選挙の前にけりを付けて置きたいということで。その九月三日に漁協がはっきりと「事前調査の受け入札をしない」と、拒否の発表をした訳です。ほんまにまあ、それで原発は終わりということになって、それからその月の三〇日に町長さんの選挙があり、反対派の押した志賀さんがうまいぐあいに当選しまして、それで、おおかた二三年目に日高の原発は息を潜めてくれました。
 ほんとに長い年月でした。大阪から和歌山県の各地から久米先生をはじめ多くの方達が、事あるごとに支援にかけつけて下さって、どんなに励まされたかわかりません。ありかたいことでした。

 今の日高町は妙な安心ムードになりましてね、小浦なんかでも、原発済んだよ、とそう言って、昔の事として、原発に触れないようにして生きています。原発と言うとなんとはなしにそれは、トゲのようなもんで、賛成同士、反対同士の間では何にもないんですけど、反対と賛成の間では原発というのは禁句でして、うっかり言ってば平和を掻き乱すような言葉になってしまうので、もうその話題は皆避ける事にしています。やっぱり、私らの喧嘩した年代が死んでしまわない限り、その傷痕というのはとれないだろうと思いますね。
 これは、原発に声をかけられて、ひと騒ぎしている町村はどこもかも皆、こんな傷を受けているんだと思います。本当にひどいことですよねえ。
 それに、そうそう安心ばかりしていられないのです。日高町にも、周辺の市町村にも、原発を推進したい人はいっぱい、いるのですから。風の吹きようで、いつパッと燃え上がらないとも限りません。
 私か今一番言いたいのは、後になって、おかみにだまされたなどと、泣きごと言ってほしくないことです。だまされないよう心とぎすまして、時には反対する勇気をもってほしいということです。自分に出来なかったことを、人にやってもらいたいというのは、本当にあつがましい話ですけどね。
 今の若い人たち、テレビなんか見ていたら、遊ぶ時、ものすごく活力出しますけどねえ、なんでもうちょっと、政治とかPKOとか、そういう事に怒らないのでしょうね。昨年のあのPKOの派遣なんかにしたって、もしかしたら将来自分に徴兵令が来て行かんならんような事がおこるかも知れないのに平気で、そしらん顔している。投票なんかもしないでしょう、あれは、ほんまに間違っていると思うんです。こんな風に無関心で居たら、いまに、その付けをば。うんとこ払わせられるような気がします。しっかりしてくださいね。
 と言うのが私の遺言です。
 なんだか、この頃、お母さんたちもお金儲けに一生懸命になってね、子どもにしっかり勉強しろとお尻叩いて、自分はお金儲けに走るだけ、みたいになってきましたから、家の中で、そんな風な話を子どもとゆっくり話しする暇なんかないんじゃないでしょうかね。だからなんだか心配です。この問の選挙なんかにしても、あれだったら自民党がちっとも減らないで増えたくらいでしょう。あれは自民党はおかみだから自民党の言うことを聞いとかないと損だという意識が心の中にあると思うんですよね。
 もうちょっと女の人しっかりせんとあかんと思うんです。代議士なんかでも少ないでしょう。数。私はほんまにもっともっと、つくらんといかんと思います。女の人が結束して女の人をば入れるんだったら、もっと上がるはずですもんね。そして内閣総理大臣を女にして、閣僚も女にして、そして一人か二人男も入れてあげる。そしてね、私はそうしたら戦争せえへんと思うんですけどね。戦争起こりそうになったら、その国に出掛けていってん、肩なんかボコッとたたいて、にこっと笑つて、あんたもそんな怖い顔しないで仲良く話して、あんたも引くし私も譲るし、お互い譲り合ったら、あんな殺人ゲームなんか、やらないで済むんじゃないですか。そして自分の子どもたちをば殺したくないでしょう。と話し合う。女どうしだと出来ると思うんですけどね。そんな時代がこないかなーー。とこれは私の夢です。だけどもねそれまでは、とても生きていられません。まあ、若い人たちにそんな夢を託しておきたいと思うんです。ほんとに皆さん頑張ってくださいね。
                 (すずき・しずえ 一九一八年生まれ)

原発建設を阻止した町をゆく〜和歌山県日高町の経験から(上)

原発建設を阻止した町をゆく〜和歌山県日高町の経験から(下)


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