原点は広島原発

  

ウラン原爆(Wikipediaより):広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)

 ウラン235は広島に投下された原子爆弾で用いられた。天然ウランに含まれるウラン235の割合はわずか0.7%で残りは核分裂を起こしにくいウラン238である。そのため、原爆に用いるためにはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる(注:当時の技術レベルでは)。
 放射能が少ないために取り扱いは容易であるが、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。(後略)

米国による原爆製造をさかのぼるとマンハッタン計画に行きつく→Wikipedia「マンハッタン計画」

 

岡田校長の広島原爆体験談

 小生は高校時代、岡田甫(はじめ)という校長の広島原爆の体験談を聞いた。校長は1年に1回だけこの体験談を長々と話した。校長の長話があるという日には、生徒は文句を言うことなく、全員講堂の床に座り、先生方も一緒に話を聞いた。校長も真剣だったが、生徒も純真だったのだろう、すすり泣く声があちこちから聞こえた。小生はその後、どんな内容だったか、殆どを忘れてしまった。ただ、死んでいく学生の「先生、これからは戦争のない世の中にして下さい」と言ったということだけは覚えている。
 今年、お盆休みに本箱を整理していたら「たどりつつ」という題名の岡田校長の本を見つけた。出版されたのは昭和63年なので、校長先生が晩年に出版したものを卒業生に頒布したものであろう。福島原発の事故と放射能がまき散らされたこともあって、ページをめくって、校長の広島原爆の体験談の部分を探した。小生は18歳で高校を卒業して今年で51年である。消えつつあった校長先生の話の記憶を新たにすることができた。その部分をここに掲載させていただく。
(岡田先生は東大教育学部を卒業し、恩師であった織田祐萠旧制広島高等学校長に頼まれ、教授兼学生主事として広島市に赴任したという。)

「…このころになるともはやこの家の眼下を東西する広島港・呉軍港の出入艦船の傷ついた姿がいや応なしに露呈され、戦局の推移は逐日、歴然と推知されてきた。その上、敵機はしばしば広島市街を機銃掃射し、海軍工場へも投弾され、現に私も長男も通学途上敵機の機銃掃射に遣い、僅かに身を路傍に伏して事なきを得たこと、二、三回。

 こうして我々は皆、お互いにジリジリと危機の身に迫りつつあるを本能的に感じ合いつつ、一刻も早く戦争の終了を待ち望んでいたが、この中で田村君という生徒隊長は戦争否定の考えと、現にこれに反する生徒隊長の任務との矛盾に堪えぬ旨の遺言を懐中にして、自らの生命を断ってしまった。この旨を母君から承って一同ともに泣きぬれたその夜の次の日、昭和二十年八月六日午前八時十五分、…

 当時、広島高等学校では軍関係の作業に出勤予定だったので、その要員は皆、玄関前に整列、私は学生主事として人員を点呼し、総員二百七十二名と記入し終わり万年筆をポケットに収め入れようとしたその時、薄暗い紫青色の光が一瞬―誰かが「照明弾だ!」と叫び、皆、反射的に物陰へと走り出した、その時にはもう全貝はね飛ばされていた。私もそのまま玄関脇の溝の中に落ち込み、同時に痛さをどこかに感じていた。一時失神したか否かも判らなかった。周辺はただ暗く、溝の中にはまり込んだまま上から抑えつけられていて動けない。しばらくして私は「皆、大丈夫か?」と叫んだ。すると応えが聞こえて、ここで元気を取り戻し、這い出して直ちに死傷者を調べようとしたが、まだ身体がよく動かない。お互いに声を掛け合い手当てしながら、周囲を調べ始めた。その結果、当日出席学生二百七十二名中、重傷七十九名、―この中から次々と空しく散り去っていった―抱いているこの私の膝の上で、「戦争はダメ、ダメ!!」「戦争やめろ!」「苦しいー死ぬ、死ぬ!」と、とぎれとぎれに叫びつつ……。

 防空壕の床面は血のりで滑り、医療材料も底をついた。軍事教官、教授連中は誰も来ない。身体の動ける学生らと外へ出ると、校舎は大半崩れ落ち、人々の指さす西空の中空には黒灰色の入道雲の塊がムクムクと巨大な渦を巻き起こしつつ立ち昇っている。これが何か?と思う気も起きず、ただ夢中で死者傷者の手当てに忙殺され通しだった。そのうちに校外からおびただしい避難者の群々―。私が学校長に報告のため門を出ると、もう道路は負傷者・死者で一杯、倒れ、呻き、そのまま息絶えてゆく。かろうじて報告を終え、とにかく家をと目指したが、街路も家も判らなくなったそこには、死者傷者が次から次へと増してゆき、いつか知らぬ間に私は死体と死体との間に足を踏み込みつつ進んでいた。「水をくれ!」と誰かが私に倒れかかった。「広島一中、一年何?」とか言ったが判らない。目も鼻も歪み崩れて、かろうじて生きているこの少年を肩に掛けて、水を探しつつ太田川べりに来た。家に帰るにも、もう一面の火の海だ。この子を引っ張り引きずりながら、水を飲ませ水を浴びつつ、河べりを北へわが家へと向かったが、全面火焔の海ばかり、身体が熱くて堪らない。もういかんともなしようがなかった。どこをどう歩いたか―校舎に辿り着いた時には、まだこの少年の脈はかすかに打っていたが、間もなく絶命した。一夜明けて多くの屍とともに鉄板に重油を注いでこの子を火葬した。後日、姓名も判らぬまま(半年間新聞に広告を出したが不明)現在、松本のわが家の墓地に納めてある。

 翌日、わが家の跡近く―大学のグラウンドが見えるところまで尋ねていったが、熱気で靴が焼けてきて到底近寄れない。 その時いまだ燃えさかっていた太田河岸の石炭の山のような焔の色を今も思い出せる。翌日もまたその次の日も近寄れず、さらにその翌日に大学運動場東北の一角を目指して行き、そこから東方へ歩測目測して行く中に、目標にしていた隣組用の大きな防火水槽を発見した。この南の奥がわが家だった。この水槽のすぐ北にわが女児環(たまき)の焼死体と判るそれが横だわっていた。そしてさらに踏み進んでヘルメットや瓦傑の中を一つ一つ探してゆくうち、遂に―わが妻友江の姿を―、もはや決して還り来ぬ心の姿としてのみ、見出さねばならなかったのである。友人にアドヴァイスされて用意していった骨壷にそれぞれを納めて持ち帰ったが、まだ一人次男の秀真(当時三歳)は見当らず、夕刻、空しく引き揚げ、その翌日一応公務を済ませて探す準備をしているところへ宇品警察から私に電話で、「お宅に三歳の男の子がありますか?」と聞かれた。「その子は死にました」と言うと、「いや、どうもその子は生きておられるようです。名を聞くとオカダホヅマ。父さんはと聞くとオカダハジメ」。「何をしているの?」―「先生」「どこの?」「ヒロコー」と。「とにかくすぐ見にきて下さい」と。私は死体の転がっている街路を自転車で駆けつけると、宇品郵便局の前に警官に抱かれて、グルグルと白布で頭を巻いたわが子が生きていた。まさしく生きていてくれた。抱きしめた時の感じ―いまもありありと目に浮かぶ。ちなみにこの子はもう四十歳を越え、元気で事業に活躍中である。

 七十幾日後、妻と次女の遺骨、及び中学一年(疎開中なりし)の長男と、前記次男(この子は白布で首から吊した両腕を必死に突っ張りつつ)、次々と列車に雪崩れ込んで来る復員兵達の圧力を防ぎ抜いて、三十余時間を費して塩尻駅で乗り換えた。その時見知らぬ人が声をかけてきた。「あなた方はまだこれだけ生き残っている。私はもう一人きりだ」そう言ってこの人は去っていった。

 広島でもう一つ書き残したいことがある。原爆投下前二日の夜のことだ。対岸新居浜の被爆炎上を見ながら、私は畏友細川藤右衛門教授(数学)と語り合い約束した一条だ。もちろんお互いに敗戦は目前必至と知っていたから、「我々が降伏し鉄鎖につながれたら、互いに死ぬまで隣の者に戦争は絶対にするナ!と語りかけ、もし余命あらばお互いのもっている学問と人倫とを教え続けよう」と固く盟い合った。これは今もそのまま生き続けている。だがしかし、細川先生は原爆の日、広島高師の教壇(兼任)で被爆即死せられた。遺体の表面は破れずに、しかも頭蓋内部は壊滅しておられた――。私は四十年後もなお、犠牲者達から受けたあの感銘を決して忘れることはない。
 それは酸鼻と形容される生身の感覚だけではないー生者死者諸共、故なく道理なく暴力に打ちひしがれた生・無生すべての怨念の訴えである。「単なる生物」であるだけの人間同士が、「我欲」のため、互いに殺し合い奪いあってやまぬ鬼畜の境涯を脱出し、共存してゆかぬ限り、無限地獄を脱出することはできない。…」(以上)

 小生が高校生の頃、岡田校長は昼食を毎日、生徒5、6人と校長室で食べた。小生も名簿順に級友とともに弁当箱を持って行った。食べ始めると、「君はどこから通学しているのかね」などと順番に話しかけてくる。小生の番になると、校長が「君はいつもメッチェン(若い女性)のことばかり考えているだろう。そういう目つきをしている」と言われた。小生は図星を突かれたようで、何とも答えようながなかった。昼食が終わり校長室から出ると、級友の一人が小生に「校長はグループの一人に必ずああいうことを言うんだ。気にすんなよ」と言ってくれた。小生は「あの校長、オレをからかったな」と、ふっと安堵したことを思い出す。

 岡田校長も名物であったが、この高校にはもう一匹の名物がいた。どこからともなく迷い込んで学校に住み着いた犬・クロであった。晴れた日には生徒は皆、校庭や屋上で弁当を食べた。その習慣は、家から弁当を持参できない、いわゆる欠食児童・生徒に恥ずかしい思いをさせないための習慣がそのまま当時も続いていたのだと聞いた。クロは昼食時には生徒から生徒へと弁当のおかずを貰って歩くのである。しっぽをふりふり、人なつっこくて、ローカから時には、授業中に教室にも入ってきた。
 ある年の運動会に仮装行列が行われ、各クラスが担任の先生に工夫をこらした仮装をさせた出し物を競った。先生が中に入ったバチスカーフ潜水艦というような大がかりなものも出た。あるクラスの出し物は、先生が寝間着のような服に帯を締め、クロを縄で引っ張って、後ろに西郷隆盛と書いた幟を立てて歩いた。校庭を一周したが、クロの人気で拍手喝采を浴び、たいした手間を掛けないでアイディアだけで一等賞をさらった。

(加藤純二、2013/9/2、「教育労働ネットワーク」(季刊誌)に掲載された原稿とほぼ同じもの。)

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